第3節  五條高等学校時代


・統合

昭和20年8月15日、第二次世界大戦はポツダム宣言を受諾し、終結した。占領軍の進駐により改革が始まる。教育制度も、昭和23年4月1日、六・三・ 三・四制がとられ、五條中学は五條高等学校に、五條高等女学校は宇智高等学校に改称し、昭和23年8月31日に統合され、男女共学の五條高等学校が誕生し た。
通学区が制限され、生徒の中には親しんだ学校から離れ、近くの高校に転校しなければならない者もあった。
9月1日、第2学期の始業式と同時に開校式があり、この朝、女生徒は列をつくり、五條高校の南門を緊張と不安で顔を硬張らせなが らくぐった。困ったことの一つは、便所であった。そこで、新しく女子トイレが設置された。その時の生徒数は、1年生327名、2年生219名、3年生58名の計604名であった。

・再出発

高等学校初代西尾芳喬校長は、戦後の混乱期に的確な指針を示し、英断を下した。マラソンを復活させ、男子は橋本、女子は隅田の往復コースを設けた。授業 は選択制で、2・3年の混合授業も行われ、生徒の希望により教科科目のクラスが決定され、担当教員を配置した。生徒は必要な単位を取ればよかった。しか し、この制度は短期で打ち切られた 。
体育大会、文化祭も開催され、3年に一度の体育大会では仮装行列があり、本校の近所の人々の参観で運動場は人の波となり、大いに盛り上がった。競技は通学区域別の分団対抗で、先輩後輩の連帯感も養われた。
男女共学による生徒の急増に、金陽会館を職員室として利用し、その北側の控室を教室に改造した。昭和28年に全面改築を計画し、第1期工事として、木造2階建ての北校舎が竣工した。

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・基礎づくり

2代日夏嘉吉校長は、全面改築計画が木造で既に予算も計上されていたのを、涙ぐましい努力と熱意で県当局に当たり、鉄筋による全面改築に計画を変更してもらった。

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当時は体育館がなく、雨が降ると体育の授業が教室での保健の授業に変更した。生徒総会も運動場で行われた。昭和34年9月26日、伊勢湾台風が近畿地方を 直撃、自転車置き場が倒壊した。生徒の被害状況は、家屋の全壊14、半壊9、浸水171であり、授業を中止し救援活動にあたった。被害生徒宅への家庭訪問 を行い、文化祭を中止した。
松下校長は健康を害したため、年度途中で退職し、道下佐一郎校長が就任した。昭和37年、講堂を取り壊し、昭和38年には講堂兼体育館が完成した。戦後 のベビーブームの高校進学期にあたり、本校舎より300m北方の寄宿舎横に3教室の木造仮校舎が造られた。生徒は、体育・芸術などの科目の時間、本校との 間を往復した。教員も教科書や試験問題を抱え、時計を気にしながら行き来した。この仮校舎も使用されなくなったが、昭和54年木造2階建ての北館が改築さ れる際に再び使用された。

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・水泳部の躍進

戦後、昭和21年8月、五條高等女学校チームが第1回国民体育大会に出場し、総合3位となった。昭和23年以降は、五條高校チームとして連続出場し、日本新記録の更新が相次いだ。
昭和25年、第18回日本高等学校選手権水上競技大会女子部に初優勝し、それ以後、昭和34年の第27回大会まで十連続優勝をとげた。昭和29年の第 22回大会では、男子部も併せて優勝し、五條高校の名が全国に知られることとなった。昭和35年の第28回大会は天理高校に優勝を奪われたが、昭和36年 の第29回大会から昭和39年の第32回大会まで

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再び連続優勝を続け、通算14回優勝を遂げた。
五條高校水泳部で育った選手の中から、アジア大会、オリンピック大会などの国際的にも活躍する選手が数多くいた。
昭和27年第15回オリンピックヘルシンキ大会には、坂口文子、坂本和子と卒業生の山下貞子の3名が出場、昭和31年第16回オリンピックメルボルン大会には、和田映子、島田節子、卒業生の佐藤喜子の3名を、昭和35年第17回オリンピック

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17ローマ大会には、宮部シズエ、和田映子、佐藤喜子の3名の卒業生が出場した。昭和39年第18回オリンピック東京大会には、菊谷多鶴子、松田奈津子と 卒業生の東美代子の3名を、昭和43年第19回メキシコ大会、及び昭和47年第20回ミュンヘン大会には、卒業生の川西繁子が派遣された。
その他過去3回のアジア大会には、新宅七郎、梅本利三、新子富子、山下貞子、坂本和子、宮崎亮子、宮部シズエ、佐藤喜子、片岡幸子、

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島田節子、和田映子、岡本節子、小林由美子、辻本妙子、中西美智代が出場、ブラジルのユニバーシアード大会に梅本利三、ハワイ遠征に佐藤喜子、辻本妙子、中西美智子が、カイロ遠征に窪美代子、オーストラリア遠征に佐藤喜子が派遣された。
この輝かしい水泳部を指導されたのが浦井保弘先生であった。

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・経済の波とともに成長

昭和39年、上田佐武郎校長就任。戦後のベビーブームで生徒数が激増し、本校でも昭和40年、全学年32クラスが一クラス50名を越え、その内55名のクラスが9もあった。昭和39年には木造仮校舎が建設された。
プール北側の崖の下に昭和37年に古い講堂の半分を移して建てられた4教室があったが、陰気で陽が照らず、生徒からは「穴ぐら」と呼ばれて評判が悪かっ た。昭和46年3月には普通教室5つと特別教室2つからなる「新館」が完成し、崖の上からその二階へ廊下を渡して通じるようになった。
運動場は、同窓会、育友会、学校の三者の熱心な拡張運動によって、当時の運動場西側の国有・民有地を買収し、昭和41年の70周年記念事業の一環として 整備拡張された。スタンドもコンクリートで整備され、昭和49年には運動場の排水・盛り土などの改良工事も行われた。プールは昭和46年に改修工事が行わ れ、9月13日、プール開きとしてクラス対抗校内水泳大会が実施された。昭和47年3月には寄宿舎女子棟と管理棟が建設され、翌年2月に男子棟が完成し た。
昭和43年には、昭和27年から15年間続いた女子科が募集を停止し、普通科を8クラスとした。

高等学校入学学力検査も、昭和44年より従来の9教科から5教科となって実施され、実技検査もなくなった。昭和45年には特別クラスが廃止されたが、昭和の40年代はこの習熟度別教育が功を奏したのか、東京大学をはじめ有名大学への合格者数が増加した。

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学校行事では、昭和40年に校内弁論大会が日本語・英語の2部門で開催された。昭和40年には1・2年生による耐寒マラソンが実施され、男子が7.6㎞の 北山一周コース、女子が八幡神社までの6㎞コースで昭和48年まで実施された。昭和49年からは耐寒金剛登山となり、以後2月上旬毎年実施されている。昭 和46年、文化祭に模擬店が加わり、昭和47年の文化祭からは、他校生や一般の 人々も楽しめるようにという生徒の強い要望で一般公開され、

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日曜日を含む3日間開催された。修学旅行は、昭和50年まで九州方面の名所を訪れていたが、昭和47年に広島・山口方面となった。

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昭和45年の大阪万国博覧会では、6月17・18日の両日に分かれて全校生徒が見学した。

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・経済大国へ

昭和47年、台風20号による被害を受けたこともあって、北館木造校舎を昭和54年コンクリート三階建てに改築、普通教室8つ、図書館、商業実践室、コ ンピューター室、作法室を設けた。昭和52年度の卒業生によって、本校校訓碑が寄贈され、校門を入った噴水横に立てられた。

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生徒の自主計画を中心に研修が組まれ、「研修旅行」に名称を改めた。夏休みの初めと終わりに学年を4つに分け、福島県郡山の国立磐梯青年の家で研修を行った。昭和54年度の研修旅行は、3班に分かれ、広島の江田島青年の家に三泊、カッター訓練では

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教官の厳しく温かい指導に涙を流しながらオールを漕ぐという思い出深い研修となった。広島の原爆ドームの見学では平和の尊さをかみしめた。研修旅行は昭和59年までこの方法で実施され、その後クラス単位で行き先・研修 内容も決定されることとなっていく。
昭和52年に新春校内かるた大会が始められた。昭和59年の奈良わかくさ国体では、10月21日の国体秋季大会開会式当日は臨時休校となり、本校の吹奏楽部・音楽部の部員が式典に参加した。また、1・2年生約100名が大会期間中補助員として活躍した。
昭和61年に創立90周年記念式典が挙行され、記念誌も発行された。

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・21世紀に向かって

国際的には、第二次世界大戦後の冷戦が終結し、ベルリンの壁が崩壊、ソ連が終末をむかえた。国内では、バブル期となって経済的豊かさを享受していた。平 成元年は、社会での情報化のいっそうの進展、国際化、価値観の多様化、高齢化が進み、社会の急激な変化を見せようとしていた。
平成4年3月、学校教育法施行規則の改正が行われ、同年9月から月1回(第二土曜日が休業)の学校週五日制が実施され、更に平成7年4月には月2回(第 二・四土曜日が休業)となり、平成14年4月から完全学校週五日制となった。本校では、土曜日を予備校のサテライト講座の一斉視聴や個人視聴に利用してい る。
平成2年3月から2年生の勉強合宿を新庄町の県社会教育センターで行い、同年8月に3泊4日で3年生にも実施した。平成11年からは金陽会館で春期・夏 期の勉強会が行われている。平成4年度の1年生から、英語Ⅰの6単位のうち3単位において習熟度別学習を開始し、平成5年からは2年の英語Ⅱ、1年の数学 Ⅰでも実施するようになった。その後も英語と数学で習熟度別クラス編成が取り入れられている。
平成6年度の1年から家庭科が男女必修となり、家庭クラブも、交通安全祈願マスコット配布、保育園訪問、老人ホーム訪問等の活動を男女で積極的に行っている。

本校では平成4年まで、青少年の交換留学のプログラムを提供する団体(AFS、YFU)を通して間接的に留学生を受け入れてきた。平成5年オーストラリアのガートン・グ ラマースクールと姉妹関係を結び、直接留学生の交換を行うこととなった。

異文化理解と外国への関心を進め、国際的な視野を身につける契機になるようにと本校独自の留学制度を整えた。ガートン・グラマースクールから長期留学生と短期留学生をホストファミリーの協力で受け入れ、毎年3月には本校からの短期留学を実施している。

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・新校舎

昭和59年7月頃から岡口校舎の移転改築を県関係者に嘆願し始めた。校舎は築後40年を過ぎ老朽化しており、敷地も狭く校地の拡張も困難なため、新たに 別敷地に移転することとなった。岡口校舎の800m北の岡町の丘陵地を用地買収、平成元年より敷地造成工事入り、平成4年3月に工事を完了し、4月より新 校舎での開校を目指していたが、台風の影響などもあり工事が遅れ、9月に新校舎へ移転した。総事業費は50億円をかけた斬新なデザインの新校舎は、地域の モニュメントとなるように設計され、明るく開放的でゆとりのある空間を整えている。

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平成4年11月18日、落成式が挙行され、3年生90名が受付案内などをおこなった。平成8年11月1日、同窓会の募金活動によって金陽会館の改築落成が行われ、続いて創立100周年記念式典が挙行され、「百年史」が刊行された。

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新校舎移転に合わせて、21世紀にふさわしいファッションとして、平成2年の入学生から現在の制服に変えた。新制服は、良い印象をもたれ、女子の中にはこの制服に憧れて、本校への進学を決めた生徒もいた。

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