第1節 五條中学校時代


・設立から基礎づくり

明治19年4月に公布された「学校令」により、各府県に尋常中学が設置された。尋常中学は、12才以上で小学校の課程を修めたものが入学資格をもち、修業年限は5年であった。

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奈良県では、明治26年、郡山に奈良県尋常中学校が設置される。しかし、県内で、郡山一校では少ないとの声もおこり、その分校として、中部に畝傍、南部に 五條が設置されることとなった。明治29年4月、奈良県尋常中学校五條分校が、仮校舎を宇智郡五條町大字垣内229番地に設置された。正木直彦校長、分校 主任小林満三郎外3名の職員で発足し、2クラス100名を募集、宇智村大字今井第3番屋敷を仮宿舎とした。明治30年5月には、五條町外8ヶ村が寄付をし た五條町大字須恵の地に校舎が新築され、教室3、特別教室3が設置された。
明治32年7月、奈良県五條中学校となった。明治32年10月には、御真影奉安室、講堂、教室等の増設に入り、明治33年2月に竣工、建築費には 6,259円をかけた。しかし、明治33年2月17日、火災により、2月25日の落成式を前に灰燼に帰した。損害額は3万円であった。郡役所、宇智郡高等 小学校等の一部を使い授業を再開した。 消失後、在校生の一致団結した愛校心で転校する者はなかった。五條町民の援助が早期復興を可能にした。
明治33年6月、臨時県会で五條中学校の再建追加予算議案が可決され、9月、校舎新築工事が着手される。明治34年3月29日の第1回卒業式で24名の 卒業生を送り出した。この明治34年5月、工事費30,310円をかけ、新築校舎竣工、同時に寄宿舎も5,530円で竣工した。

明治34年6月21日には 文部省令により、奈良県立五條中学校と改称した。明治34年6月28日、新築校舎落成式と落成式運動会を行った。翌35年1月には寄宿舎の南に一棟増築、明治37年11月には銃器室・門衛所等を竣工する。

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明治39年4月、創立満十周年記念運動会が行われた。明治40年からは、暑中休暇中に生徒の水泳練習を伊勢の津海浜で始める。明治41年4月、生徒心得・ 生徒通信簿を制定、明治43年からは第5学年生を風紀掛とした。明治44年8月、12年にわたって五條中学の基礎づくりをした第4代大橋唯雄校長が、神戸 市視学に任じられ、退職した。

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・明治のころの学校事情

創立当初の明治29年頃、宇智郡・吉野郡・南葛城郡・和歌山県等から入学生があったが、志願者が少なく、日露戦争前までは先生方が入学を勧誘した。(経 済的に恵まれた家庭の生徒が多く在校した。)生徒の頭髪は丸刈りで、寄宿舎の生徒が外出するときは制帽に袴着用、整然としたものであった。「学ばざるも の、進むべからず」と学業に専念することが重んぜられ、成績は全員が公表され、落第者が多く出た。第1回入学生は94人であったが、卒業時には24名に なっていた。明治36年の卒業生は、6名が高等学校を受験し、全員合格という快挙を成し遂げた。
日露戦争の影響で入学生は少なく、定員に満たなかった。明治37年頃、服装は紺の五つボタンの小倉服の制服に制帽をかぶり、脚にゲートルを巻くスタイルとなった。体操には、軍隊式教練を行う兵式と、スウェーデン式の普通体操が行われていた。

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・ 大正期

大正デモクラシーのもと、国民の教育への 期待が高まり、義務教育就学率は99%を超える。大正7年、「中学校令」の改正により、学校の増設がなされた。

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奈良県でも、大正7年までは県立中学が五條・畝傍・郡山の3校と、私立中学が十津川文武館・天理中学の2校であった。しかし、大正12年に宇陀中学校が、 大正13年に奈良中学校が増設され、入学定員も大正10年郡山・畝傍が150人から200人になった。これを不公平に思った五條中学校全生徒が、同じくク ラス増設を求め2日間のストライキを行った。五條中学校のクラス増設要求は、郡会議員の尽力や卒業生(母校拡張期成会)の県への建 議書による誓願を盛んに行う。

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しかし、予算的に苦しく、篤志家の寄付による協力によって、大正11年、五條中学校も入学定員が100人から150人となった。
当時のクラス編成は、大正の初期には新入生を身長順に並べ、背の高い半分を1組、後半分を2組とし、卒業までクラス替えはしなかった。大正中期には成績 でクラス分けをし、大正後期になると4・5年のみ能力別クラ 奈良県でも、大正7年までは県立中学が五條・畝傍・郡山の3校と、私立中学が十津川文武館・ 天理中学の2校であった。しかし、大正12年に宇陀中学校が、大正13年に奈良中学校が増設され、入学定員も大正10年郡山・畝傍が150人から200人 になった。これを不公平に思った五條中学校全生徒が、同じくクラス増設を求め2日間のストライキを行った。五條中学校のクラス増設要求は
く、真剣に予習・復習しないとついていけなかった。5年間で卒業できる者は、クラスの半分ほどであった。一旦留年しても、その気になって勉強すればかなり よい成績をあげることができた。当時、外国人講師の授業を週1回講堂で2クラス合同で受け、ビスファム先生・アルバートウィルス先生などが派遣された。

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・行事

4月10日の創立記念日には、金剛登山競争が行われた。5月には旅行・遠足があった。大正10年、1年生は多武峰・談山神社の日帰り、2年奈良方面1 泊、3年京都・宮津方面2泊、4年四国方面4泊、5年日光・東京方面6泊であった。2月25日の卒業式は、職員・生徒全員控室で送別会を催した。大正10 年11月23日から25周年記念祭が3日間行われ、式典・展覧会・物理化学実験・劇・剣舞・弁論・音楽合奏・記念大運動会・餅まきがあった。

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大正14年、須貝校長の就任とともに、校旗・校歌・校章が制定され「五中精神」を発表して校訓とした。五中精神高揚のため、伊 勢神宮・伏見桃山御陵を(伊勢・京都間は列車)5泊6日で歩いた。また、須貝校長の発案で、一致協力と質実剛健の気風を養うため金陽団を編成し、6つの班を作り競争させた。

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運動部では、庭球部が強く、県中学大会の当日には全生徒で応援団がつくられ、試合では応援歌「吉野の流れ」を三拍子で歌った。大正10年陸上部がつくら れ、大正12年には生徒も砂利運びを手伝って最初のプールが完成した。この年、淡路の洲本中学から転校してきた吉田君がクロールを五中に広め、堺の水泳競 技大会で優勝 した。

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・昭和期

昭和3年、現役将校による学校教練が徹底され、軍事教練が野外で実践的に行われ、その成績も進級判定の資料となった。昭和5・6年頃、「世界恐慌」の影 響で志願者数は最も少なく、先生方が生徒集めをしたが定員を満たすことがやっとであった。入学した生徒も、経済的理由のため多くが退学していった。昭和 11年の入学試験では定員150名に対し志願者が228名もおり、中学への進学希望者数が年々増加していった。昭和10年以降はゲートル着用が義務づけら れ、教師や上級生に出会うと立ち止まって敬礼することとなり、昭和18年の新入生からはカーキ色の制服や、ゲートル、背のう式カバンとなった。寮は昭和の 初めに廃止されたが、この地に戦後女子寮ができる。

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昭和の初めに和歌山行き(五條・和歌山市間)の長距離走が実施される。和歌山では風呂に入り、復路は全員汽車で帰った。大阪行き、泉州沿岸・京都行きのマ ラソンも年によっては行われた。和歌山行きは、低学年にとって負担が大きすぎるため、昭和6年、1・2年は粉河からになった。
毎年、金剛登山マラソンは学年当初に行われていた。昭和8年には修学旅行に制限が加えられたが、6泊7日の東京までの旅行を実施していた。陸上競技部 は、県中学陸上大会に総合優勝するなど強豪となった。野球部も昭和2年に創部され、須貝校長が自らバットを持ち、美吉野グラウンドでノックした。昭和9 年、吉野川原にグラウンドができ、昭和15 年夏にも紀和大会に出場したが、強豪海草中に破れ、甲子園には出場できなかった。

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水泳部は、昭和3年関西中等学校水泳大会に優勝。剣道部は、昭和10年全国中等学校剣道大会に準優勝。柔道部は、昭和10年全国中等学校柔道争覇戦に優 勝。庭球部も、昭和7年全国中等学校庭球大会に出場。籠球部は、昭和5・6年奈良県男子中等学校籠球大会に連続優勝。排球部も、昭和6年奈良県排球選手権 大会に優勝。これらは、五中精神を具体化するために校友会を組織し、総務部、剣道部、柔道部、庭球部、競技部、籠球部、排球部、野球部、水泳部、文芸部を おいたことに始まる。

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・太平洋戦争期
昭和16年4月、小学校が国民学校と改称され、中等学校では科目が改編、男女中等学校で新入生から全国共通の制服にすることが定められた。昭和18年、中 等学校は4年制となり、教科書も国定化した。昭和16年、勤労報国隊が編成され、1年間で30日以内の食料増産作業が義務づけられた。昭和18年、軍事訓 練の徹底を図り、勤労動員は1年の3分の1になり、昭和19年3月には、1年 間一切の授業を停止することとなった。

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昭和13年5月、紀元2600年の奉祝記念事業に建国奉仕隊が結成され、全国の中学生に加わり、五中生も植樹作業を行った。

昭和19年、学徒動員で3・4・5年生450人が愛知県光音町の神戸製鋼所名古屋工場へ派遣され、飛行機の部品作りの作業を行う。

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・終戦直後期

ポツダム宣言受諾後、日本に進駐した連合軍は日本の民主化を指令し、国家主義・軍国主義など戦時教材の省略及び添削、戦時教育令の廃止、武道の排除、「修身、日本歴史及び地理の停止」などの軍国主義的教育の一掃が図られた。
昭和22年2月、文部省は、統合制・男女共学・学区制・新しい学制(六・三・三・四制)の施行を行い、中等学校は新制高等学校となり、定時制高校の設置もなされた。奈良県でも、昭和23年3月23日、旧制中学は新制高等学校に切り替えられた。